いつまでも続けたい山歩き 山で会う常連さんは驚くほど元気です

浜松〈ゆうゆうの里〉齋藤一利様(66歳)

(一人で特注の部品を材料から完成させる「職人」のような仕事は自分に合っていました)hm_happytime24.jpg

浜松生まれの浜松育ち。両親と3つ下の弟の4人家族でした。父は私たち3人を養うために休日も時には夜も働いている、無口でおこるとこわい人。母は反対に明るい人でした。私は腕白小僧のガキ大将。学校が終わると弟や近所の子供達と魚釣りや虫取りに夢中でした。中学3年の時、母から「うちには余裕がないから、公立高校に入れなかったら就職」と宣告され、必死に受験勉強を頑張って工業系の高校に...

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妻を失ってしばらくは心に開いた穴が埋まらなかった。終末期を生きる術としてここを選んだが、ここにはもう一つの人生があった

湯河原〈ゆうゆうの里〉鈴木秀則様(82歳)

(一貫して、成長産業を支える希少海外資源を扱う仕事に従事できました)yg_happytime24.jpg

大学は応用理学選考で、卒研は「水素吸蔵合金の開発」。今でこそ自動車の脱炭素燃料として脚光を浴びるようになりましたが、当時はまだ早すぎました。卒業と同時にエレクトロニクス関連の希少資源を海外から輸入する専門商社で働き始めました。日本の次代の成長産業を支える上で必要な資源を調達することにやりがいを感じつつ、半導体の分野で業績を伸ばしました。1975年には半導体不況にかかわらず...

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■自分の人生設計に基づいて、住みなれた京阪沿線で暮らすためのホームを選びました

大阪〈ゆうゆうの里〉白浜広子様(77歳)

(生命保険会社で定年まで勤め上げました)os_happytime24.jpg

普通のサラリーマン家庭で、姉、私、弟の3人きょうだいとして育ちました。真ん中に育ったせいか、私は「しっかり者」で、弟には相談されることも多かったです。学生生活を終えると生命保険会社に就職。事務職として仕事をしていましたが、折から男女雇用機会均等法が施行され、女性に総合職の道が開けました。私も上司の勧めでテストを受け、45歳の時に総合職になりました。仕事の内容もそれまでと変わり、...

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