浜松〈ゆうゆうの里〉

ものづくりに熱中し、音楽を友として過ごして来ました。今、40年ぶりの楽器に挑戦しています

浜松〈ゆうゆうの里〉堀内 二三夫様(75歳)

(幸いにも仕事は面白く定年まで勤めました)hm_happytime20.jpg

静岡県掛川市で農業を営む両親のもと、兄3人、姉2人の6人きょうだいの末っ子として育ちました。一番上の兄とは22歳、すぐ上の兄とも6歳離れており、一人っ子みたいに育ちました。中学を出て就職することになったのですが、まだ15歳ですからどのように就職先を決めたらいいのかもわかりません。長兄が苅谷市に住み自動車工場で働いていたので、半分旅行気分で兄を訪ね相談。同じ苅谷市にある...

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お寺に嫁いで57年の間尽くしてきました。今、努力が実った思いです

浜松〈ゆうゆうの里〉岡本 紀子様(85歳)

(嫁ぎ先は500年前から30代続く古いお寺)hm_happytime18.jpg

主人とはお見合いで23歳の時に結婚。主人の家は500年前から30代続く大きなお寺で、4~500軒の檀家を抱え、幼稚園も経営していました。私もお寺の娘で幼稚園の先生をしていたので丁度良いと話が進んだようです。住職の義父は良寛さんみたいな人です。貧しい家で孤児になった子供たちを引き取り、家族と一緒に住まわせていました。義母は私にお寺の嫁として...

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研究生活、家内との出会い、子育て、いつも傍らには音楽がありました

浜松〈ゆうゆうの里〉角 徹三様(81歳)

(引き揚げ先の熊本で踏み入った音楽の森)hm_happytime16.jpg

旧満州大連の生まれ。満州鉄道の電気技師だった父と優しい母、兄弟4人の6人家族でした。私は上から3番目。兄と弟に挟まれた真ん中っ子です。満州で終戦を迎えた私達は幸いにも家族揃って日本に帰ることができました。引き揚げ後は熊本の父の実家で暮らし始めましたが、そこには祖母と叔母4人が居り、合わせて11人という大家族になりました。母にとって...

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ありのままの自分で、今の生活を続けたい(一雄様)。お友達ができるかという心配は無用でした、自分に合う人は必ずいます(文子様)

浜松〈ゆうゆうの里〉岡崎 一雄様(88歳)文子様(81歳)hm_happytime14.jpg

(優しい義母のおかげ)

ご主人 12歳の時に終戦を迎え、比較的戦禍を免れた横須賀に家族三人で移り住みました。東京の大学を卒業し地元横須賀で就職。公務員として定年まで働きました。

奥様 私は4歳で終戦。戦争で父を失った家族は横須賀に引っ越しました。短大卒業後に地元横須賀で公務員になりました。市役所では主人と同じフロアで働いていました。縁があったのだと...

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家内のために選んだホームで、今は好きなことに没頭できる幸せ

浜松〈ゆうゆうの里〉小松田 孝雄様(84歳)

(家内が私の世界を広げてくれた)hm_happytime12.jpg

東京大空襲で焼け出されて身を寄せた秋田、山形から、父とともに静岡県富士市に引っ越しました。そこからは両親が揃った生活が始まりました。私は中学を卒業して就職すると、社宅住まいをして板金工になりました。以来44年、定年までずっと同じ会社で働き続けました。家内とはお見合いです。35歳の頃、念願の自宅を建てました。家内はマメな主婦で...

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鳥との出会いを求めて船上で過ごした日数は延1100日

浜松〈ゆうゆうの里〉伊藤 知道様(78歳)

(海の鳥が観たくて船旅に)hm_happytime10.jpg

戦時中の生まれです。父の仕事のため、家族が中国の天津に渡った後に私が生まれました。父、母と日本生まれで4つ年上の兄と私の4人家族でした。天心は私が4歳まで過ごしましたが、暮らしは比較的恵まれていたと思います。戦争が終わり日本に引き揚げてきましたが、待っていたのは焼け野原と化した故郷一宮市の姿。我が家も...

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離婚しても親友。夫とは今の距離感が一番心地よい

浜松〈ゆうゆうの里〉中木 好江様(77歳)

(夢中になって働いた時代 )hm_happytime8.jpg

豊川市生まれの豊橋市育ちです。畳職人の父と母、兄弟5人の私は末っ子。見習いの小僧さんもいて大勢の中で暮らす活発な子供でした。父親が4歳の時に亡くなり、その後は祖父母、母親、兄弟5人の8人家族で暮らしました。商業高校卒業後は信託銀行に就職しました。夫とは図書館で出会い17歳からお付き合いして23歳で結婚。2人の娘に恵まれ、今では3人の孫がいるおばあちゃんです。娘の出産後...

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浜松〈ゆうゆうの里〉きってのアスリート。もう一度マラソンレースのスタートラインを目指して

浜松〈ゆうゆうの里〉髙橋 秀行様 (68歳)hm_happytime6.jpg

(40代の頃からいつも頭の片隅にはこういう施設への入居がありました)

本格的に検討を始めたのは妻を亡くしてからですね。その時はもうリタイアして四日市の自宅に息子夫婦と孫3人の6人で暮らしていました。
64歳の時に新聞広告で〈ゆうゆうの里〉を知り問い合わせをしました。他のところはあまり見ていません。最初から〈ゆうゆうの里〉がいいと思っていました。また、今の時代としては若い入居ですがそれに...


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『ここにいるから叶う、恒例のハワイロングステイ』

hm_happytime4.jpg浜松〈ゆうゆうの里〉 田中 元夫様(73歳)・友美(72歳)

(子供たちが頑張って成長してくれた)
奥様 私達は教員同士。同じ小学校の職場で知り合いました。あのころの学校は若い先生がたくさんいて活気がありました。休みの日には同世代の仲間でスキーや旅行などによく行きました。そんな中で二人は自然と仲良くなって・・・私が24歳、夫が26歳の時に結婚しました。・・・。


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『妻の夢ものせて移動木彫り美術館が行く!』

浜松〈ゆうゆうの里〉 古川 三千雄様(80歳) 顔写真.JPG

(モーレツ社員を支えた家族)
 静岡県掛川市生まれの5人兄弟の4番目。子供時代は地理と図画工作が得意なガキ大将だった。拾った流木や枯れ木を使って遊んでいた。高校卒業後、ホンダ技研に就職。工場に配属されて品質管理の仕事に就いた。妻とは社内結婚。当時私は埼玉で働いていて東京の総務にいた彼女と結婚。子どもは一男一女。工場で20年勤めてから営業に異動になりそれから65歳の定年まで勤め上げた。時代は高度経済成長の真っただ中だった。毎晩帰りは遅く、休日は接待ゴルフと麻雀。まったく家庭をかえりみない、いわゆるモーレツ社員だった。営業に異動してからというもの転勤で日本中まわることになったが・・・。


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『手に入れたセカンドステージ、今が最高に幸せ』

浜松〈ゆうゆうの里〉杉浦治世さん(67歳)hm_voice_61.jpg

私は帽子屋を営む両親のもとに2人姉妹の姉として生まれました。父が早くに亡くなり、母は私達姉妹を苦労して育ててくれました。母ひとりで家族を養うことは大変で、幼い頃より「早く自立したい」という気持ちが芽生えたような気がします。私の名は父が医学の道に進んでほしいという思いで「治世」とつけてくれました。その名の通り薬剤師を目指していましたが...

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ふたりで歩く今が幸せ

浜松〈ゆうゆうの里〉本多 鐘馗さん(82歳)・千加枝さん(78歳)hm_voice_60.jpg

「私達は一緒になって50余年、思えば長い時間を共に過ごしてきました。私は無遅刻無欠勤のサラリーマン。37年間ひとつ処に勤め無事定年を迎えました。趣味はゴルフ。休みはほとんどゴルフ場で過ごしたものです。家内は家事をこなし合間に時間と財布をやりくりして外食や買い物、文化芸術スポーツ観戦など楽しんだようです。私から家内に『よくやった!』と褒めてやりたいことがあります。それは...

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妻の思い出を胸に手に入れた終の住処

浜松〈ゆうゆうの里〉竹中 敬明さん

hm_voice_59.JPG私は長年にわたり県庁の防災関連で責のある職に就いていました。その為、帰宅は毎晩22時23時。休日も不時の災害に備えて24時間体制。家族を旅行に連れて行くこともできませんでした。妻は仕事に没頭する私に文句のひとつも言わずに家を守り、母として2人の息子を愛情深く育て、嫁として親に仕え、妻として夫に懸命に尽くす、私にはもったいないくらいの・・・

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チャレンジ精神いつまでも

hama58.jpg浜松〈ゆうゆうの里〉橋本はつみさん

私は仕事も趣味も興味を持ったら即実行、迷わず挑戦してきました。女学校を出て初めての勤め先は映画館でした。そこで夫と出会い二十歳で結婚。夫と姑の三人での生活が始まりました。その後、テレビの普及により映画が衰退、私達は映画館を改装してパチンコ店をオープンしました。ところが夫が体調を崩し、それを機に麻雀荘に商売替えをしました。そして私も近くに食堂を開きました。・・・

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自分で決めるから人生は楽しい

浜松〈ゆうゆうの里〉鷹野玲子さんhamanew.jpg

私は会計事務所に勤めた後、ある自動車販売店に転職しました。当初は従業員9名の小さな販売店でした。40年も前の事ですが、ある時仕事の関係で有料老人ホームの存在を知りました。自分がこういうところに入居するとは想像もしませんでしたが、こんな将来もあるのだと驚き、以来、頭の片隅にずっとありました。会社はその後少しずつ大きくなり、従業員が増え店舗も6店舗になりました。仕事は益々大変になりましたが・・・

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短歌と随筆を友として

浜松〈ゆうゆうの里〉鈴木秀子さんhama56.jpg

私は「保健室の先生」として三十年以上を男子校の保健室で過ごしました。その頃新聞に連載中の四コマ漫画の登場人物になぞらえて付いたあだ名が"メリーさん"。退職までずっとメリーさんと呼ばれました。どの子も皆可愛い生徒達でした。オルゴールの宝石箱を贈られたり、街角で「メリーさん」と声をかけられ振り返れば大人になった懐かしい顔、なんて嬉しいことも。・・・

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安心の下に自分らしい生活を

hama26.7.jpg浜松〈ゆうゆうの里〉白谷尚子さん

 こういう暮らしがあるんだと知ったのが、約3年前に友達に誘われて参加した浜松ゆうゆうの里の見学会。それが1番始めのきっかけです。もしその時に見学会に参加しなかったら、今でもまだ名古屋のマンションにいたかもしれません。
 ここなら職員もたくさんいて、いざという時に安心して頼れると思えたし、ホームのすぐ近くに医療施設が充実して・・・

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人生の褒美に値する貴重な時間

20140507hama.JPG浜松〈ゆうゆうの里〉大森嗣朗さん・桂子さん

第一線をリタイヤした後はできるだけ子供達の世話にならない生活を以前から考えていました。私達は地元の浜松市出身ですが当施設は地域での評判が良く、総合病院聖隷三方原病院が近くにあり、気持ちの良い印象に好感を持ち入居を決めたんですよ。入居後、・・・

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夫婦二人での『時』を楽しむ

hmv43.jpg浜松〈ゆうゆうの里五月女昇一郎さん・せつ子さん

私たちは六十歳になる前から老人ホームへの入居を検討していました。五十代後半の時に病気を患ったことが入居を検討するきっかけでした。病気を抱えていた為、三方原聖隷病院という信頼できる総合病院が徒歩圏にあったことも決め手の一つでした。庭園も広く、開放感があり、なにより・・・

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前向きに暮らす楽しさ

hmv42.jpg浜松〈ゆうゆうの里平松ヒデ子さん(86歳)

社会福祉協議会の理事をやっていた事もあり、ゆうゆうの里の事は知っていました。以前、同じ町内の方がお風呂で急に亡くなった事があり、一人で暮らしていると周囲の人に迷惑を掛ける。それだけは絶対に避けたいと思い、一人になったら、入居しようと心に決めていました。ゆうゆうの里は、全体の雰囲気が良く、職員の皆さんが親切で、見・・・

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思い切り『今』を楽しむ

hmv41.jpg浜松〈ゆうゆうの里阿部貞子さん(82歳)

両親を看取った経験から、子供には迷惑をかけたくないと思っていましたので、一人になった時には、入居をしようと決めていました。出かける事が好きで、『元気なうちは、満足行くまで遊びたい!』とつねづね思っていました。体験入居をして、ここなら、希望通り不安なく出掛ける事も出来るし、何かあった時は総合病院・・・

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新たな挑戦に忙しい日々

hmv39.jpg浜松〈ゆうゆうの里土屋新生さん(71歳)

親の介護をしている友人の話を聞いたりして、介護の大変さを痛感していました。また、その頃、目に疾患ができたり、脳の大手術を受けたりと、いつ何があるか分からないと思うようになっていました。そのため、自分の事は、自分で考えなければと思い、具体的に施設入居を考えました。入居を考えた時、一番の悩みは、・・・

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